妻鹿 目賀 音揃 から 片桐家は、軍事や医学だけではなく、
     相撲のルーツに関係する歴史のある家であることが分かりました。


音揃(おんぞろ)家に関する祖父片桐寛龍より伝承


音揃(おんぞろ)家の事はもう数百年も前に遡ります。私どもの名字は現在は片桐姓でありますが起源にもどれば、島津から妻鹿(めが)から目賀(めが)そして音揃そして片桐と目まぐるしく変化していますが、一環して武家の家系の命脈をたもってきました。

音揃の起源を説明しますには、どうしても最初から触れなくてはなりません。
豪傑として世俗で代名詞的な島津氏長がはじまりで次に建武の中興で赤松円心の家来の目賀孫三郎長宗が、護良親王に仕えて太平記に登場する豪傑です。
優れた兵術家で剣術家であったので四書五経に精通していたので軍陣医学の金創医学の実践の知識が豊富で南蛮医学の栗崎流とともに当家に伝承、以来陰の軍師として、医学知識も伝承しました。京都紫野大徳寺の前身の大徳庵を円心とともに設立した風流人でもあります。
 

         
                                  目賀孫三郎長宗
 この時代の大徳寺の守護神の白沢が当家の守護神として軸画として伝わっています。

         
 
松随臣として国府城をいただき城主として晩年を過ごしたと伝承され、その後黒田勘兵衛の居城となり、勘兵衛の継母の一人は妻鹿(めが)城主縁のものと伝承されています。
時代が下り、赤松家の内紛で島津薩摩の妻鹿一族は彼の土地を離れ、歴史上から消え播磨の室津に薩摩妻鹿の威厳と誇りを伝播するため「妻鹿」から「目賀」に改姓したと伝承されています。この目賀の姓は兵庫、大阪近縁に現存されています。

        
          嘉吉の乱で赤松家が滅び、姻戚の妻鹿一族は播磨の室津に落ち延び
          薩摩妻鹿の誇りで妻鹿を目賀の姓に改名した。そのため系図の妻鹿孫三郎は
          当家では目賀孫三郎と代々語り継ぐ。
               歌川国芳筆 妻鹿孫三郎 三井寺合戦図



 
日本の歴史 第11巻 太平記の時代 新田一郎「相撲の歴史」によりますと

  本場の「京都の相撲」を地方に供給することによって高禄を得ることがあった。
  『太平記』にも、赤松則村の手に属して六波羅攻撃に参加した軍勢のうちに、
  「生年十二ノ春ノ比ヨリ好デ相撲ヲ取ケルニ、六十余州ノ中ニハ遂二片手ニモ
  懸ル者無リケリ」という播磨国の妻鹿孫三郎長宗が、一族を率いて登場する(巻第八)。

  鎌倉初期の建永年間には「妻鹿四郎」が石清水・北野の奉納相撲のために播磨国から徴発され、
  ややくだって弘安年間には「妻鹿三郎」が今熊野六月会の相撲を務めており、妻鹿は相撲人を多く輩出し、
  そのことによって京都との結びつきを維持してきた家であったことが窺われる。
                                   (新田一郎『相撲の歴史』)
 
  参考文献  新田一郎 著 日本の歴史 第11巻 太平記の時代 株式会社講談社 発行 より抜粋


 この桃山時代の目賀の時代に折しも、朝鮮出兵で水軍を持っていました。孫三郎の七世の孫の目賀次郎左衛門宗延の代に、文禄役に黒田勘兵衛の村上水軍とともに豊臣秀吉の命に参戦し、名護屋城まで秀吉を送る途中、海上を大船団を指揮する拝命をいただき海上往来の際に大音声の基、一糸乱れぬ櫓の音が揃い、後世に遺るほど見事な軍師と言うことで風水の龍穴の位置の大坂川口の堺湊浦に土地と水軍館を授けられ音揃次郎左衛門と改名しました。

          

          

          
                    水軍時代の鬼瓦

 
音揃時代は医学知識を駆使し大名と親交をし、自家存続の基礎を築かれました。
当時の資料ルソンの薬壷は博物館に寄託されています。
その間に豪族の地位を固めるため瀬戸内の寺院や堺の豪商の斗々屋に音揃伊左衛門の子の次兵衛を養子にだしました。斗々屋茶碗で有名な茶道の数奇者の家系です。現在銘菓が遺っています。


             
              左、斗々屋茶碗(ととやちゃわん)。 高麗茶碗の一種です。
              江戸時代、堺の商家斗々屋を継続させるため、当家から養子を
              出しています。箱には裏千家12代 千 玄室 の箱書きと、花押があります。
              右は堺の歴史ある焼物 湊焼の糸割符 香合。
 
天下相撲の行司職も熊本の吉田家からも頂戴し、代々力士が当家の往診駕籠を護衛しました。

           

特筆伝承は関が原の島津義弘の島津の退けロの際に堺まで遁走された時、義弘と姫を薩摩妻鹿の血の誇りで、本源院の要請で薩摩水軍船四隻とともに泉州や懇意の村上亜流水軍を指揮、薩摩まで逃げるを援助したと、その御礼に島津の丸十字の布団の藍染布をいただきました。これを暖簾として作り直した銃痕跡なまなましいものが遺っています。音揃の最後の時代でした。


                    
 秀吉なき跡、数代は音揃本家でしたが徳川時代に豊臣の残党や軍功が問題になるのをさけて片桐に改名して四百年は医師、茶人、軍陣医学専門家として諸大名や幕府に支えて、本宅は現在の土地に移籍、大徳寺の僧侶、頼山陽など文化人の
薮の内流のサロン棲龍館として遺りました。
   

     片桐家の意匠は水軍時代の軍の扇と守護神の龍神に由来する双龍に由来しています。

          




        
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