堺の名医と当家の歴史について


                  
 堺は古来より諸外国と交易が古く、薬種が容易に入手でき医学の始まりも堺や和泉地方を中心に展開したといっても過言ではないと思います。応仁・文明の乱(西暦1466年〜1477年)で荒廃した京都から一時期堺に文化が移転し、最新の中国医学も堺から伝播されました。
 名医としては半井家と竹田薬師院家があります。半井家においては明の時代武宗皇帝が病に倒れた折に三国の名医を探したが見当たらず初代半井明親が渡海して治癒し、御礼に駿馬を頂き、驢庵と名を号しました。この時点で日本の漢方が中国を陵駕していたのです。

 また、半井家が過去に所有し、一千余年以前の平安時代に丹波康頼が撰述した本邦最古の医者「医心方」も堺に天文二十三年(西暦1554年)正親町天皇より半井家に御下賜されその後皇家から保管を累代に亘り委ねられていたのですが半井家の方々も堺大空襲からも守られ、重責に感じられ近年、朋友のオリエント出版の野瀬真様や古書店の大阪の中尾書店、東大前の井上書店の店主の方々の奉仕で国が買い上げて「国宝」指定となり、現在千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館に収納されています。はるか中国や朝鮮の今は散逸した医学文献が所々に窺われ人類の宝とされています。

 半井家の処方も堺発信で、東京の大手メーカーから日本独自の健脳生薬製剤として出されています。また、ご存じないかと思いますが、近年この医学歴史や疾病の歴史で専門の三木栄医師のことも少し触れておきます。朝鮮総督府の医師で在官中に膨大な朝鮮王朝や中国の医学歴史の研究に没頭し、名著朝鮮医書誌を昭和二十六年に文部省の援助で刊行され、研究者の必読書となっていますし帰国後膨大な医学古書を収集研究されました。没後、医心方の異本の「瑠璃壷」は散逸を恐れ井上書店より当方が惜譲されて書架に収まっており、京都半井家主催の護王神社の医学展覧会に出品したこともあります。

 後者の竹田薬師院家についてですが、初代昌慶も渡明し経絡の銅人形や漢方の指南書「医方集成」を伝え、足利義満に仕え、子孫は本邦最初の梅毒について記載された「月海録」を著し、堺に永住して子孫代々、岸和田藩や和泉の伯太藩の御典医師を務めました。また、堺の大安寺にも薬種の交易所があり、当時の人参益元丹の看板も当家に保存されています。大永八年(西暦1528年)には阿佐井野宗瑞が明の熊宗立の「新編名方類書大全」二十四巻十冊を翻刻し、堺市博物館に収蔵されています。

 この様に医学や薬種の知識や現物が海運交易を通じて存在し京都に近い為、朝廷の庇護の下、堺が医学の中心となりました。私どもは朝鮮の文禄の役(西暦1592年〜1598年)で秀吉公より湊の土地を賜り、その前の治地の播磨の妻鹿や鞆津を離れました島津氏長の末裔の目賀もしくは妻鹿孫三郎が子孫で、薩摩妻鹿の一族で大徳寺の前身の大徳庵を寄贈した赤松円心の家来でしたので、大徳寺の守護神の「白澤(はくたく)」が当家の守疫神となっています。この時代は軍陣医学で戦傷や城郭の薬の管理などをしていたようです。水軍を持っており朝鮮出兵の際に秀吉公より櫓の音が揃って見事なので音揃(おんぞろ)という名前を頂戴した時期もありました。堺の湊に住居を構えてからは戦傷も腹部の傷も同じということから産婦人科専門になり明治まで諸落の御典医を勤めました。江戸最後時期、先祖が落命した時、江戸より幕府の医監の山田図南が来られ先祖に羽織を脱いで与えられ当家の累代役目の感謝をされたと言い伝えられていますので何か特命を負っていたようです。屋敷も昔は三重の雨戸でした。歴史は別添の資料を参考にして下さい。また、ホームページをご覧頂きますれば当家をよりご理解頂けると思います。是非、アクセスして下さい。