摩利支天尊廟と相撲  市中の山居に秘廟あり


 片桐家伝承では,天文法華の乱の時、京都の本法寺が焼失し、同寺宝物の御玉尊像と堺へ逃れられ、当地に本御廟の前身が建立され、なお伝承添え状によると世上に流布の三面六肘で夜叉で猪に乗る御姿は本玉像が起源とも記載あり。

    
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 正慶二年、足利尊氏の当時の足利大和守宛て本玉像との添え文付の花押印付口伝写し状も伝承。また当家が本廟土地を統治以前に朝鮮役で、加藤清正公が本玉像の摩利支天像と添え軸を持参、霊験にて無事帰参。清正公没後、その玉像は本法寺に納められたとも同寺縁起にも記載とあります。
現在の当廟の御本尊は玉でなく木造神が祭祀されています。

  

   
                         
摩利支天尊廟

 また由来書には漢時代に高祖が頂羽との合戦の際にも摩利支天像を携行して勝利したとも記載され、軍神として武芸を好むとも併記されています。

大閤様より堺湊浦と
龍穴のある本御廟の土地を恩賞として賜り、目賀、音揃水軍の当家の守護神として船霊の神と大徳寺有縁の避邪神の白澤とともにお祀りしています。

   

     
                 鹿の絵が2つ描かれています。  

                  
龍穴灯寵
            棲龍堂の名前に由来の龍穴上に安置の灯籠、当麻寺西方の古来浄土とされた
            ニ上山よりの龍気が仁徳陵で二分、一つは武野召鴎の墓所に開口,
            今一つは当地に開□と代々伝承
            東大寺の修ニ会縁の当家牛黄伝説も関連、実忠和上が笠置の龍穴での
            経験が修ニ会の縁起  火袋に耳を充てて音を聴いてください  

                             堺指定名勝第一号庭園付属物

 
その関係で陸海の自衛隊の幹部の方々の表敬訪問が継続しています。また、数多くの海上自衛隊護衛艦搭乗と東大寺様の御協力で戦没者洋上慰霊の行事遂行の栄誉を賜りました。

戦いの神として祀り、旧姓名の音揃四郎左衛門の時代には廃墟の本廟を整備し、再興しました。現在の御廟は音揃から片桐に改姓した音之輔が茶室を建てて大前栽を整備したとき修復整備され、第二次大戦後の屋根の瓦葺着替えと耐震工事で現況に至っています。

明治の阪堺電車の開通で線路により参詣道が閉鎖されたので、積年にわたり家族で祭祀しています。
当時の名残の宝暦年銘の、湊村人連署名の刻彫された井戸枠や手水鉢など御廟の設えが遺っています。

     

      


家系図によると、代々豪傑の島津氏長やその末裔の目賀孫三郎が先祖しと輩出しました。両者とも相撲にも関連した家系でしたので、血脈系統として、特に元知の時代には寛政年間に肥後熊本候家臣の吉田善左衛門、ならびに萩原幸吉とともに天下相撲の行司職につき、その時勝負の軍神として本廟付近を整備しました。



日本の歴史 第11巻 太平記の時代 新田一郎「相撲の歴史」によりますと

 本場の「京都の相撲」を地方に供給することによって高禄を得ることがあった。
 『太平記』にも、赤松則村の手に属して六波羅攻撃に参加した軍勢のうちに、
 「生年十二ノ春ノ比ヨリ好デ相撲ヲ取ケルニ、六十余州ノ中ニハ遂二片手ニモ
 懸ル者無リケリ」という播磨国の妻鹿孫三郎長宗が、一族を率いて登場する(巻第八)。

 鎌倉初期の建永年間には「妻鹿四郎」が石清水・北野の奉納相撲のために播磨国から徴発され、
 ややくだって弘安年間には「妻鹿三郎」が今熊野六月会の相撲を務めており、妻鹿は相撲人を多く輩出し、
 そのことによって京都との結びつきを維持してきた家であったことが窺われる。
                       (新田一郎『相撲の歴史』)
 
参考文献  新田一郎 著 日本の歴史 第11巻 太平記の時代 株式会社講談社 発行 より抜粋



当家のお抱え力士は毎日早朝から築山を巡拝しお百度を踏み、勝利を祈願しました。お百度石は数百年を経て現在も廟前に三本仰立しています。

        

 
飛び石が多いのは警護家人の撃剣修行と力士等の鍛練のためと祖父から聞き、また明治時代まで、お抱え力士の諸国巡業のお土産の海亀や阿波の文楽人形など土蔵にあり、祖父は入蔵が怖かったと話されていました。室戸台風で西土蔵は倒壊しました。

当家は寺院でありませんが、日蓮上人は摩利支天尊だけは信仰を許されたと伝承されています。故に堺に日蓮系統寺院は数箇所当時に避難された摩利支天尊廟が遺されています。

なお前述の吉田善左衛門は19代の吉田司家の当主で横綱制度の創案者で、横綱を免許された力士は吉田司家の門弟になりました。谷風、小野川が我が国の最初の横綱です。歴代当主は幕末までは堺相撲の保護に代々、心を注がれ、力士は邸宅の周囲に居住して主家の往診の随伴や警護にあたりました。当時の力士専用のタンスも遺っています。

    
     往診用に使っていた駕篭  紀州藩、岸和田藩、伯太藩や、近隣の公卿屋敷、神社などに
     夜間の往診時には力士が護衛していました。
     内装はジャワ更紗の影響を受けた堺更紗が使われています。
     内部には薬篭(薬箱)や本棚もあり、煙草も吸えました。


 

播州の妻鹿本拠の薩摩妻鹿を先祖とする音揃水軍の守護神の摩利支天尊が名勝庭園の片隅に祀られていて、本場所が龍穴とさされ石(相撲取りの郎党が淡路島より運んだもの)が、戦勝に因むため、海上自衛隊や陸上自衛隊の将官の方々が参拝されます。当家の日月流が戸山学校の撃剣の正課に採用されていました。


 さざれ石 堺市の文化財調査で発見されました。さざれ石とは、もともと小さな石ですが、
     長い年月で大きな塊の石、巌(いわお)になったものです。君が代にうたわれている石です。
     大きく重い石ですので、お抱えの相撲取りが運んでいます。

 


 
御廟の天井にはかって龍穴の象徴の龍が描かれていましたが、朽廃の為補修の時遺失しました。現在井戸枠が遺り、水が涸れている場所で体を洗ったりし、稽古の合間に龍穴灯龍の音色に耳を傾けた、往時の繁栄が目に浮かびます。稽古土俵は現在の薬草園にあったと聞き及んでいます。
横綱誕生にも祖先が関与していたとの伝承です。堺相撲は開口神社で興業があり、第二次大戦の堺大空襲で焼失した絵馬堂には当家や堺相撲に関連の奉納絵馬が沢山あったと祖父から聴き及んでいます。関連の摩利文天尊の祭祀器も祭司に必要と解説のため、累代遺存管理しています。
祭祀日は十一月十日、摩利支天尊の好物の松茸を供物として捧げ家族でしめやかに行っています。当地産の松露が採れなくなり代用となりました。


                      比叡山の大僧正筆
 
 

  

      





摩利支尊天廟と相撲

片桐家伝承では天文法華の乱の時、京都の本法寺が焼失し、同寺宝物の御玉尊像と堺へ逃げられ、
当地に本御廟の前身が建立され、なお伝承添え状によると世上に流布の三面六臂で夜又で猪に乗る
お姿は本玉像が起源とも記載あり。

正慶二年、足利尊氏の当時の足利大和守宛本玉像との添え文付の花押印付口伝写し状も伝承。
また当家が本廟土地を統治以前に朝鮮役で、加藤清正公が本玉像の摩利支天像と添え軸を持参、
霊験にて無事帰参、清正公没後、その玉像は本法寺に納められたとも同寺縁起にも記載とあります。

現在の当廟の御本尊は玉でなく木造神が祭祀されています、また由来書には漢時代に高祖が頂羽との
合戦の際にも摩利支像を携行して勝利したととも記載され、軍神として武芸を好むとも併記されています。

太閤様より堺湊浦と龍穴のある本御廟の土地を恩賞として賜り、目賀、音揃水軍の当家の守護神として
船霊の神と大徳寺有縁の避邪神の白澤とともにお祀りしています。

その関係で陸海の自衛隊の幹部の方々の表敬訪間が継続しています。また数多<の海上自衛隊護衛艦
搭乗と東大寺のご協力で戦没者洋上慰霊の行事遂行の栄誉を賜りました。

戦いの神として祀り、旧姓名の音揃四郎左衛門の時代には廃墟の本廟を整備し、再興しました。
現在の御廟は音揃から片桐に改姓した音之輔が茶室を建てて、大前裁を整備したとき修復整備され、
第二次大戦後の屋根の瓦葺着替えと耐震工事で現況に至っています。

明治の阪堺電車の開通で線路により参詣道が閉鎖されたので、積年にわたり家族で祭祀しています。
当時の名残の宝暦年銘の、湊村人連署名の彫刻された井戸枠や手水鉢など御廟の設えが遺っています。

家計図によると、代々豪傑の島津氏長やその末裔の 目賀孫三郎が先祖とし輩出しました。
両者とも相撲にも関連した家系でしたので、血脈系統として、特に元知の時代には寛政年間に
肥後熊本候家臣の吉田善左衛門、ならびに萩原幸吉とともに天下相撲の行司職につき、その時勝負の
軍神として本廟付近を整備しました。

当家のお抱え力士は毎日早朝から築山を巡拝しお百度を踏み、勝利を祈願しました。
お百度石は数百年を経て現在も廟前に三本仰立しています。飛び石が多いのは警護家人の撃剣修行と
力士等の鍛練の為と祖父から聞き、また明治時代まで、お抱え力士の諸国巡業のお土産の海亀や阿波の
文楽人形など土蔵にあり、祖父は入蔵が怖かったと話されていました。室戸台風で西土蔵は倒壊しました。

当家は寺院でありませんが、白蓮上人は摩利支天尊だけは信仰を許されたと伝承されています。
故に堺に日蓮系統寺院は数箇所、当時に避難された摩利支天尊廟が遺されています。
なお前述の吉田善左衛門は19代の吉田司家の当主で横綱制度の創案者で、横綱を免許された力士は
吉田司家の門弟になりました。
谷風・小野川が我が国の最初の横綱です。歴代当主は幕末までは堺相撲の保護に代々心を注がれ
力士は邸宅の周囲に居住して 主家の往診の随伴や警護にあたりました。
当時の力士専用のタンスも遺っています。

御廟の天井にはかつて龍穴の象徴の龍が描かれていましたが、朽廃の為補修の時遺失しました。
現在井戸枠が遣り、水が涸れている場所で体を洗ったりし、稽古の合間に龍穴灯籠の音色に耳を傾けた、
往時の繁栄が目に浮かびます。
稽古土俵は現在の薬草園にあったと聞き及んでいます。

横綱誕生にも祖先が関与していたとの伝承です。
堺相撲は江戸時代に開口神社ご興行があり、第二次大戦の堺大空襲で焼失した絵馬堂には当家や
堺相撲に関連の奉納絵馬が沢山あったと祖父から聴き及んでいます。

関連の摩利支天尊の祭祀器も祭司に必要と解説の為、累代遺存管理しています。
祭祀日は十一月十六日、摩利支天の好物の松茸をお供えして捧げ家族でしめやかに行っています。
当産地の松露が採れなくなり代用となりました。





                    片桐家十七代当主
                      片桐平智 識




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