片桐家と相撲 |
家系図によると、代々豪傑の島津氏長やその末裔の目賀孫三郎が先祖しと輩出しました。両者とも相撲にも関連した家系でしたので、血脈系統として、特に元知の時代には寛政年間に肥後熊本候家臣の吉田善左衛門、ならびに萩原幸吉とともに天下相撲の行司職につき、その時勝負の軍神として本廟付近を整備しました。 日本の歴史 第11巻 太平記の時代 新田一郎「相撲の歴史」によりますと 本場の「京都の相撲」を地方に供給することによって高禄を得ることがあった。 『太平記』にも、赤松則村の手に属して六波羅攻撃に参加した軍勢のうちに、 「生年十二ノ春ノ比ヨリ好デ相撲ヲ取ケルニ、六十余州ノ中ニハ遂二片手ニモ 懸ル者無リケリ」という播磨国の妻鹿孫三郎長宗が、一族を率いて登場する(巻第八)。 鎌倉初期の建永年間には「妻鹿四郎」が石清水・北野の奉納相撲のために播磨国から徴発され、 ややくだって弘安年間には「妻鹿三郎」が今熊野六月会の相撲を務めており、妻鹿は相撲人を多く輩出し、 そのことによって京都との結びつきを維持してきた家であったことが窺われる。 (新田一郎『相撲の歴史』) 参考文献 新田一郎 著 日本の歴史 第11巻 太平記の時代 株式会社講談社 発行 より抜粋 当家のお抱え力士は毎日早朝から築山を巡拝しお百度を踏み、勝利を祈願しました。お百度石は数百年を経て現在も廟前に三本仰立しています。 |
飛び石が多いのは警護家人の撃剣修行と力士等の鍛練のためと祖父から聞き、また明治時代まで、お抱え力士の諸国巡業のお土産の海亀や阿波の文楽人形など土蔵にあり、祖父は入蔵が怖かったと話されていました。室戸台風で西土蔵は倒壊しました。 当家は寺院でありませんが、日蓮上人は摩利支天尊だけは信仰を許されたと伝承されています。故に堺に日蓮系統寺院は数箇所当時に避難された摩利支天尊廟が遺されています。 なお前述の吉田善左衛門は19代の吉田司家の当主で横綱制度の創案者で、横綱を免許された力士は吉田司家の門弟になりました。谷風、小野川が我が国の最初の横綱です。歴代当主は幕末までは堺相撲の保護に代々、心を注がれ、力士は邸宅の周囲に居住して主家の往診の随伴や警護にあたりました。当時の力士専用のタンスも遺っています。 往診用に使っていた駕篭 紀州藩、岸和田藩、伯太藩や、近隣の公卿屋敷、神社などに 夜間の往診時には力士が護衛していました。 内装はジャワ更紗の影響を受けた堺更紗が使われています。 内部には薬篭(薬箱)や本棚もあり、煙草も吸えました。 |
さざれ石 と のぞき蹲(つくばい) さざれ石 堺市の文化財調査で発見されました。さざれ石とは、もともと小さな石ですが、 長い年月で大きな塊の石、巌(いわお)になったものです。君が代にうたわれている石です。 蹲(つくばい) 茶室に入るとき、手を清めるための石の手水鉢 播州の妻鹿本拠の薩摩妻鹿を先祖とする音揃水軍がさされ石や蹲を淡路島より運んでいます。 重い石のため、当家お抱えの相撲取りの郎党が運びました。 |
稽古土俵は現在の薬草園にあったと聞き及んでいます。 横綱誕生にも祖先が関与していたとの伝承です。堺相撲は開口神社で興業があり、第二次大戦の堺大空襲で焼失した絵馬堂には当家や堺相撲に関連の奉納絵馬が沢山あったと祖父から聴き及んでいます。関連の摩利文天尊の祭祀器も祭司に必要と解説のため、累代遺存管理しています。 祭祀日は十一月十日、摩利支天尊の好物の松茸を供物として捧げ家族でしめやかに行っています。当地産の松露が採れなくなり代用となりました。 |
目賀孫三郎が相撲の勇者だったのに因む鳥羽絵相撲戯画 銘の享和三年は相撲箪笥の年号と一致、天下相撲行司の音之助時代と一致 |
江戸時代 元禄時代 堺大濱・海浜相撲絵図 |
相撲隠雲解(スモウ イン ウン カイ) 片桐家は吉田司家より天下相撲行司職の任務拝領 開口神社にかつて絵馬掲げましたが空襲で焼失しました 当家の文化財は堺の表具師 宮川芳文堂 (堺市堺区南旅篭町東1−2−11) が親子2代にわたって担当されています。 |
片桐家所有 相撲関連用品 相撲箪笥 |
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