妻鹿一族の最長老で歴史学者の妻鹿好司様よりの手紙です

   妻鹿孫三郎は東寺百合文書記載の実存人物であること
   宮本武蔵も赤松の系統と自身で語る文章の紹介
   播磨の行事の妻鹿との関連やここ数十年の研究結果の報告

    を頂きました。

  以前のお手紙も幻の妻鹿本家が当家で積年の謎が紹介と当家の先祖画の薩摩鹿の丸十字紋の鎧着用絵図
  薩摩妻鹿の末裔が名前を数度かえて堺に落ち延び、撃剣法、武術、軍人医学が代々経営されたこと感嘆文、
  百数枚の便箋とともにいただき、妻鹿一族の知識をいただきました、今回も当家に高齢のため伝播のため
  記されたと思います。
  文化財係りの方々の福眼となれば幸甚です



                       片桐家と関係のある部分を簡略、抜粋して紹介します

嘉吉の乱
 (嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が、室町幕府の第6代将軍・足利義教を自邸で殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱   ウイキペディア より)

で赤松家が滅びました。その後、残党などにより、赤松家は再興され、赤松政則の守護の時代に入りました。
その時総領家赤松政則と赤松貞範流の対立があり、妻鹿城に、総領家と敵対する貞範流の赤松孫次郎貞祐を持ってきたわけですが、それが妻鹿孫次郎貞祐の事です。

私が思いますには、再興の妻鹿城主は血統上は赤松氏なんですね。
時代は下剋上に向かうところで、再興した妻鹿城主は総領家に敵対した春日流のため、妻鹿城を守る人材が十分ではなく、岡山方面に移っています。
なぜ岡山方面かは、嘉吉の乱の時赤松の侍の家が備前、美作に多く逃れて、後に播磨へ帰ってきていました。
宮本武蔵は美作出身ですが「自分の家は振るわなかったが赤松の末葉である」と書き残しています。

また、妻鹿孫三郎は太平記にあるだけで、本当はなかったと言われていました。
しかし、高野 好先生(東大史学部卒)が東寺の「教主護国寺文書」のうちの「百合文書(ひゃくごうぶんしょ)」中に妻鹿孫三郎長宗が山城修築に働いたという文書を発見し、妻鹿孫三郎が実在した人物であると確定されました。
また播磨の行事の妻鹿との関連やここ数十年の研究結果の報告をいただきました。


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  音揃(おんぞろ)家に関する祖父片桐寛龍より伝承     




 
     片桐家の意匠は水軍時代の軍の扇と守護神の龍神に由来する双龍に由来しています。

          




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