時空を超えて先祖の偉勲の探訪、播州妻鹿の地へ
 
 重陽の節句の日に、突然、播州黒田武士の館を運用されて居られる、郷土歴史家で 「妻鹿城史」を執筆された、
神澤輝和様より、我が祖先の妻鹿孫三郎長宗が薩摩氏長の末裔と伝承されているのですが、鹿児島図書館など、
薩摩現地で各方面に当たられても謎を解くことができなかったそうなのですが、私どものHPに出会われて、
薩摩・島津氏長の末裔で納得解明との御文をいただきました。 

この度、播州妻鹿を表敬訪問しました。

                
                   神澤 輝和 様

   



 
 山陽電気鉄道本線 妻鹿駅横 市川                 兵庫県姫路市飾磨区妻鹿


  
         妻鹿駅の掲示板                          妻鹿城模型   (播州黒田武士の館より)



        

当家伝来の妻鹿孫三郎出陣の掛け軸絵の長宗の軍旗、着用鎧の胴や草擦の家紋も島津十字が描かれている
のでさらに納得されました。

嫡流保存で改名ごとに大切に継承し、現存品は江戸中期に堺の狩野派絵師に作成した写しと推測されます。
文禄五年の大地震で随分、遺品が失われて、同時に複製の船霊の軸絵も残存。家紋の表紋妻鹿扇は約700年、
裏紋の島津十字も約700年、金蒔絵の食器、服紗など江戸時代のもの残存。

薩摩島津妻鹿の嫡流の縁で島津義久を堺の浦から逃がした御礼の当時の布団の藍布も関が原戦いの銃痕を繕い、
暖簾として使用されています。島津十字の家紋が400年過ぎても鮮やかに、顧客を迎えています。

HPで既述の相撲も、住友本家、泉屋博古館御所蔵の伊万里の大皿の力士図の傍らに妻鹿扇の裃を着用の
我が一族が描かれています。系図に記載の九州の吉田司家から天下相撲の行司職を拝命した時期です。
島津氏長以来の日本の相撲に携わることが秘裏に証明されました。

また摩利支天廟の祠の守護の狛犬も角があるので、神澤様から麒麟なので大切にと進言いただきました。
伝来神具縁起書どおり、なぜ相撲の神様の摩利支天尊が京都堀川の本法寺焼失がおり、堺に一時、移転、
堺に遺ったのか納得できました。古来中国の戦の兵法の神体であったと推測しています。

倭寇伝来の古代中国の軍人医学も我が水軍時代より平行伝承、これが太平記時代、妻鹿孫三郎長宗が
六波羅勢3000人に包囲され17人中1人のみ無数の矢傷を負いながら、生き延びた止血秘薬運用も現在伝承、
顧客様に感謝されています。

黒田官兵衛家の家財の礎で官兵衛様の祖父の考案のめぐすりの木の効用も降嫁の奥方の赤松妻鹿に薩摩妻鹿
伝来の軍陣医学が貢献したかと推測しています。

黒田官兵衛様も亜流の赤松妻鹿一族ですが嘉吉の乱で責任、逐伝した薩摩妻鹿の兵法の血脈は伝承されたと思います。
前述の神澤様の積年の膨大な妻鹿研究の結果によりますと、嘉吉乱の西暦1441年以降、存在不明の薩摩妻鹿家の嫡流が立証されたとの事でした。

当家祖先が昔年に国府城の城主で名あったと推測される様です。以前、家は遣るためNHKの珍名番組で紹介されたごとく、島津、妻鹿、目賀、音揃、片桐と 5回も改姓でいくら妻鹿でさがしても見つからなかったと納得されました。


               妻鹿城 初代城主 妻鹿孫三郎長宗 とあります
               神澤様が長年研究にうちこまれて作成されました。

 
                                      妻鹿 国府山城跡 登り口

       
        
        妻鹿城跡の碑 にて


神澤様も私も70代なので息災の内にお互いに御逢して談義をしたく、妻鹿本家当主として579年ぶりに播州妻鹿を
表敬訪問いたしました。快晴で古城跡の近くを流れる市川の水面が穏やかで奇麗でした。
国分城の建碑や黒田官兵衛縁のめぐすりの木に思いを馳せ、花束を捧げ、また官兵衛様の父の墓所、黒田職隆公の
廟にも花束を捧げ、神澤様の播州黒田武士の館、漁具展示併設にも立ち寄り、貴重な黒田家の遺品、拝眼し
御夫婦の心からの御案内に感謝して、播磨の土地に心引かれる思いで堺に帰路、先祖の御霊に報告しました。
突然不思議な事が吉祥か舞い込み、神仏に感謝しています。

      令和2年9月21日
                       
片桐棲龍堂
                        片桐 平智 識


 補遺

拙稿は飾磨の妻鹿氏の家系列に関しては本当に浅才です。
初めて昨年に縁を得て、先祖の曾ての居留場所を数百年ぶりに表敬訪問し温故知新の余韻に浸った処です。
今回また有り難い事に一族の長老で、「妻鹿城史」編纂に携われた赤松関係の専門家から、
未知の指摘、膨大な原稿と多くの研究資料の成果と貴重な御教示をいただき、新たに次世代に伝
播の史料を補遺として紹介させていただきます。

播磨の飾磨の当家の先祖の事は全く、伝世の巻物やロ伝以外は空白でした。
詳細は一度「妻鹿城史」を図書館などで閲覧され、登場人物の歴史上の位置など理解して
ください。膨大な史料と複雑な登場人物数で、とても本稿では語り尽くせません。

御教示の簡潔要点は
「妻鹿城史」の妻鹿三郎四郎長定が、嘉吉の乱の後、妻鹿の垣内に落人し、今も垣内には家が遺っていること。
長太郎音踊が遺されていること。
赤松の家臣団の中には「巴の家紋」が主流だが、実際には「かたばみ紋」の者が多かったこと、
島津藩と尾張藩に士族として遺ったこと。
幕末では妻鹿一族から日本医学史の妻鹿友樵が輩出、浪速で活躍、その他、園芸家の妻鹿加年雄様も
  一族で,家紋がかたばみ紋衣用の友樵の肖像画を所蔵されていた事実など確認されたこと等,
興味深いこと御教示いただいた。

 
註 妻鹿三郎四郎長定とは
史書では嘉吉元年の赤松満祐の代に足利義教を謀殺し、嘉吉の乱で赤松一族が滅亡、
その際に長定は,当時の城赤松一族,幕下には記載がないが,孫郎長宗の正当嫡流なの
で参戦したものと推測されています。城山城から落ち延びた様で薩摩系妻鹿氏は歴史舞
台から姿を消した。
落人の縁の者が妻鹿から目賀に改姓し継世し当家として遺ったのであろうかと思っています。