伝教大師尊像一幅 古筆 江戸初期 最澄は東大寺様で具足戒を受け正規の僧としての資格を得ると、 直ちに比叡山に登り草庵を構え、華厳の研究をしている間に、 天台の智者大師の教説が重要なことに気づき、鑑真和尚の 招来した天台の法文を写経中に仏陀の本懐は「同じく三乗の 門戸を開き、等しく一乗の宝車に付する」にあることを確信し、 思索と勤行の結果内供奉十禅師に栄達をしました。 その後天台の正しい教義の勉強のため、入唐求法し、密救の 灌頂を受け、たくさんの仏典、法文道具を持参、その後天台宗は 南都六宗と並ぶ独立の宗教として公認されました。 最澄はその後空海との宗教論争に明け暮れ、天台独自の山修山学 の理論を確立して示寂した。最澄は幼少時に医学の勉強をしたとの 記録もあり、伝教大師全集の守護国界章巻には醍醐や乳の効能と 仏教との揶揄を明快に説明していて、医学や薬学の素養も伺い知る ことができるので、空海とともに、当資料館では医薬に関連する宗教家 として、その御影を陳列展示しました。 片桐棲龍堂 漢方資料館 |