平成24年 秋季堺文化財特別公開 
片桐棲龍堂庭園





   平成22年7月 堺市指定文化財 名勝第1号
        片桐棲龍堂庭園

  種 別    名 勝
  名 称    片桐棲龍堂庭園(かたぎりせいりゅうどうていえん) 
  員 数    2か所〈座敷庭(大仙栽)・坪庭〉
  所 在   堺区西湊町3丁1‐16 
  所有者    片桐平智(かたぎり よしとも)
  法 量    323.12u(座敷庭:308.81u・坪庭:14.31u)
  時 代    江戸時代後期

【解説】

片桐棲龍堂は堺区西湊町3丁に所在する老舗の漢方薬専門店で、敷地内には江戸時代後期に建築された主屋を

はじめとする国登録有形文化財(平成12年10月登録)の建造物があり、主屋の東側には同時期に作庭されたと

考えられる庭園が広がっています。

 本庭園は、本来、二つの築山とその合間には枯滝石組(かれたきいわぐみ)が設けられ、庭の周囲には枯流れ

(かれながれ)が大きく回り込む形で作られ、流れの2か所に大振りの石橋を架け、沢飛びを設けて庭園景として

いますが、支障木の移植と飛石の据え直しを目的とした復元整備が平成19年に実施された際に、表土中に

埋没あるいは植栽・地被類で隠れていた腰掛待合(こしかけまちあい)遺構、砂雪隠(すなせっちん)、2か所の

つくばい、飛石等が発見され、鑑賞本位の築山林泉式庭園と思われていた庭が、築山・滝・流れを配した奥山の

景色の中に作られた露地の形態・構成を持った庭園であることが判明しました。

 現在、茶室遺構は検出されていないため、その場所や形態は定かではありませんが、唯一残されている戦前の

庭での集合写真から、待合の南側、枯流れをまたいで四阿(あずまや)風な建物があり、茶室の一部であった

可能性が考えられます。

 片桐家は、江戸時代後期には、茶道薮内流宗匠(家元)・六代目比老斎竹陰紹智(ひろうさいちくいんじょうち)と

の交流があったことが、同時代の当主肖像画賛よりうかがえ、本庭園の作庭にも関わってくる可能性が少なからず

考えられます。

 堺市の旧市域は戦災に遭ったため、旧家には江戸期に遡るような庭園はほとんど現存していません。その中で、

戦災を免れた西湊町地域で以上のような露地庭と推定できる庭園が現存していたことは貴重であり、堺の茶庭の

たたずまいを知る上で歴史的にも重要な庭園と言えます。



     摩利支尊天廟(まりしそんてんびょう)

 天文法華の乱(1536年 天文5年)で、京都の本法寺が焼失した時、堺に避難されました。

その時一時的に建てられたのが本廟です。足利氏の花押印のある由来書が残っています。

水軍の神様として、加藤清正の信奉があつかったとされ、現在も自衛隊の方々が来られます。

 摩利支天は、仏教の守護神の一柱です。原語(サンスクリット語)のMarici(マリーチイ)

は太陽や月の光線を意味し、陽炎(かげろう)を神格化したものです。陽炎は実体が捉えら

れないため、転じて常に隠れた形のままで自在の力を有する神とされ、武士の間に摩利支天

信仰がありました。

 日本では中世以降に信仰を集め、楠木正成は兜の中に摩利支天の小さな像を納め、山本勘助や

前田利家といった武将も信仰していたと伝えられています。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されて

おり、山岳信仰の対象ともなりました。木曾の御嶽山は摩利支天山、乗鞍岳は摩利支天岳という別名が

あるほどです。

 御像は本来女神像ですが、男神像としても造られるようになりました。月と猪に乗る姿などがあります。

 本廟の天井には江戸文化年間初期(1800年代初期)の銘書がかかっており、両側の狛犬や

神明造りの塔社が国登録有形文化財となる理由となりました。
  

      龍穴に立つ灯篭

   黄色い花はツワブキの花。  昔、この花が咲いている時、手術をすると快復が早いと
   いわれていました。花は春と秋の2回咲きます。


   伊勢なでしこ


   奥座敷 縁側


    正面 築山 からみた庭


  大仙裁 枯流れ山水
 

  むき栗 (複製)  異例の黒く四角い茶碗。


  利休の子(娘婿) 千 少庵 自筆の書
  利休切腹の次第が書かれている。