家伝漢方医薬学の系譜


片桐音之輔
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片桐音之輔と茶道


             片桐音之輔と茶道

 片桐音之輔と藪内茶道の関係が最近、吉備国際大学の
井上秀二教務部長により御報告があり七代目藪内家元・桂隠斎の
門人姓名記録に文化十一年甲戌の二月十二日に名前を連ね
ていることが御教示され、新しい発見となり、本ホームページ
がご研究のお役に関与しました。

藪内記録帳によりますと、音之輔が入門のその十一日後に、
杉田玄白の弟子で蘭方医師として著名な、美濃大垣藩医師
江馬春齢の息女の、女流詩人、江馬細香の名前が記載され
ていて、細江女史を通じての頼山陽、篠崎小竹、岡田半江など
文人との交流が確認されました。

文化文政時期の堺の交流サロンとして当家が利用されたの
でしょう。またその後堺の豪商の榎並氏や沢山の堺在住の
方々の名前が記載されています。お誘いして入門をお世話
したのでしょう。

斗々屋茶碗で有名な斗々屋家に養子を出したのもこの時期
です。また仏間の家訓の掲額を篠崎小竹が揮毫していますし、
その他の現存する書簡から武家の茶道の藪内流が堺で
流行したことが推測されます。

堺奉行所の筆頭与力の岸氏も著名な高弟でした。また
禅楽寺や長慶寺の僧侶と松露の茸をやりとりした文や、
村上水軍、村上松五郎の毎年のご挨拶状文などが残されて
います。

江馬氏の関係か山陰の蘭方医の鶴山先生の二重筒切の
花生けが、銘「村雲」として朱漆で松の花押を印したものが
伝世しています。かならず花を生けると雲を呼び、その日は
雨が不思議なことに降ります。

茶道を通じて蘭方の医師の方々のサロンとしても役に立つ
場となった事でしょう。
当家は殆どが茶館で、京都風の華奢な数寄屋風の建物で、
居住の場所と云うよりも接客室ばかりで、住むのには本当に
不便な設計になっております。いまも当時の茶室の四畳半が
空襲で焼けずに保存されていて、随所に藪内の風情が感じ
られます。
井上先生に希有なことだとお褒めいただきました。

        (片桐音之輔、音之助、乙之助 は同一人物です)



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                       片桐音之輔と民話伝説

堺が文化の時代、いまから二百年前はすぐ近くまで海岸線があり、
時々海賊の来襲もあり、そのため屋敷の廻りに家子郎党や
相撲取りを住まわせて、警護をさせ、何かの時は寺院の鐘を点いて
防戦にあたったと祖父の話でした。

そのころ、音之輔は大江氏の四天王で、武名と知恵者で誉れが高く、
紀州藩からも虎の藩印を押して出納奉行に仕官命があったのですが、
固く辞して市井で風雅に暮らす方を選択されたのです。

ある日、堺奉行所から、東湊の一里塚の方で毎晩、老婆の幽霊が出て、
旅人が怖がって、夜は人どおりも絶えて困っています、どうか原因を
確かめて欲しいとの依頼があり、音之輔は雨の降る晩に傘を差して、
提灯を持って一人で、一里塚に出掛けますと、なるほど老婆が暗闇で
踊っている様に見え、近づいて照らしてみると山犬やキツネが、
行き倒れの老婆の亡きがらを食べていて、燐の火が青く見えて、
その様子が幽霊に見えたと判り、翌日村人に丁寧に埋葬させると、
それ以来何もおこらなくなり、感謝されたとの事です。

大胆な人だったそうです。僅か六歳でひとりで天下茶屋の道場に
通って武芸を身につけた人物で、日月流という独自の剣法を編み出した
と門人の記録が残っています。

山犬やキツネがいるほど当時は堺湊の土地も自然環境が良かったの
かもしれません。